終業式の朝、親父が家出した。
「ちょっとひとりにさせてください」
テーブルの上にそんな書置きを残して。
「ちょ、お袋! なにこれ、親父マジでいないの?」
その書置きとともに台所に駆け込むと、お袋はいつも通りに、だけど二人分の朝飯を作っている。
「なによ、慌てて。ああ、それ? そうなのよ。ひさしぶりだわ」
「なに笑ってんだよ、親父いなくなったんだろ? ひさしぶりって前もあったのかよ、いつだよそれ!」
「ほら、朝ごはんできたから食べなさい。終業式なんでしょ? 遅刻するわよ」
目玉焼きの載った皿を持って、お袋は呆然とする俺の隣をすり抜け、台所を出て行った。
訳のわからないことだらけだ。なんで親父がいなくなるのか、そしてなんでお袋がこんなに平常心でいられるのか。普通慌てるだろ?
だが時計を見ると、とりあえず学校に行かないとと思い、朝飯を食べて家を出た。
終業式で長ったらしい話が続いている間も、自分以外の通知表が配られる間も、ずっと親父のことを考えていた。
浮気とかしそうなタイプじゃないし、ここ数年夫婦喧嘩らしきものも見ていない。家の中には家出の理由がなさそうだった。
じゃあ仕事、会社のことか? ドラマで観たことあるけど、実はクビになってましたとか?
でも、それじゃあお袋の「ひさしぶり」っていうのがわからない。昔クビになったとか? いつだよ。俺が生まれる前か?
「あーもう!」
思わずそんな声が出て、慌てて周りを見たが、皆自分の通知表や冬休みの予定についてしゃべっていて、誰も俺の声には気づいていなかった。
ようやく学校が終わると、友達からの遊びの誘いを断って、そのまま帰った。でも、なんだか家に帰る気がしなくて、本屋で立ち読みをして時間を潰す。
その合間、ふと親父の携帯に非通知にして電話してみた。家族からの電話だとわからなければ、電話に出るかもしれない。そう思ったから。でも、すぐに「おかけになった電話は電源が入っていないか……」というメッセージが流れて、電話を切った。
「くそっ」
思わずそんな声が出た。
なにやってんだよ親父の奴。
家に帰る気になったのは、日が暮れる頃だ。
やっぱり、お袋は二人分の夕食を作っていた。その姿が逆に怖くなってきて、親父についての質問はひとつも口に出せないまま夕食になり、そのまま夜が更けていった。
日付が変わっても、ぜんぜん寝る気にならなかった。
せっかく冬休みになったって言うのに、全くテンションが上がらない。考えるのは親父のことばかりだ。
一家の主がいなくなったっていうのに、お袋は普通すぎる。探そうとか思わないのか? いったいどうする気なんだよ、このまま戻らなかったら。
――このまま、戻らなかったら?
「くっそ、なんなんだよ!」
俺は通学用のバッグを乱暴に開けると、中から煙草とライターを取り出し、部屋を出た。
寝ているお袋に気づかれないようにそっと家を抜け出し、向かったのはマンションの屋上だ。
屋上の隅には、俺が置いた灰皿代わりの空き缶がある。むしゃくしゃしてどうしようもないとき、夜中にここに来て、1本だけ煙草を吸う。そんなことを今年の夏からはじめていた。
いつものように階段を上り、屋上へ出る。
「!」
思わず俺は息を呑んだ。そこには、いつもの屋上とは違うものがあったからだ。
屋上には、テントが張られていた。テントの前には椅子とテーブルが出ている。テーブルの上にはランタンが光っていた。
なんだ? 誰かこんなところでキャンプしてるのか?
驚きながらもその光景を見ていると、テントの中から物音がした。誰かがいる。ヤバイかもと思ったが、どうしようと思っている間にテントの中から人が顔を出した。ランタンに照らされたその顔を見て、俺は叫んだ。
「親父!」
「バカ、今何時だと思ってるんだ」
人差し指を口に当てながら小声で俺を叱るのは、まぎれもなく親父だった。
「なんでいるんだよ。なんでこんなところに。家出ってなんだよ」
「家出? 母さんから何も聞いてないのか」
驚きのあまり、俺はその場に立ち尽くしたままだった。さっきまでのイライラも、もうどこかへ行ってしまった。
あれだけいろいろ考えたのに、まさか数百メートル上にいただけだなんて。
「そうか。それじゃあ驚くよな。ま、座れよ」
親父はそう言って椅子を引いた。俺は言われるままにそこに座る。
「いろいろ心配しただろ。ごめんな」
「そうだよ、だって家出ってなんだよ。おかしいだろ。ちゃんと言えばいいだろ」
さっきのイライラが少し戻ってきて、俺は親父に詰め寄った。
「家出……まあ、そうか」
親父のほうは笑っている。
なんで笑ってられるんだよ、こっちは怒ってんだよ。
「あのな。『ひとりにさせてください』とは書いたが、別に『帰りません』とも『探さないでください』とも書かなかっただろ。朝になったら帰るつもりだったからな。
俺な、学生のときから星の写真を撮るのが好きで、昔はよくこうやって冬に写真撮ってたんだよ。結婚前の、まだ同棲してた頃に、よくああやって書き置き残して写真を撮りに行ってたんだ。母さんがアウトドア嫌いな上に寒がりなのはお前も知ってるだろ?」
「まあ、そうだけど」
初詣すらちょっと嫌がるからな、お袋は。こんなところで一晩過ごすなんて言っても、絶対ついてこないだろう。
それにしても、親父が星が好きだとか、そんなの聞いたことなかった。
「お前が生まれてからは昇進して仕事が忙しくなって、なかなかそうもいかなくてな。だから、写真もしばらくご無沙汰だったんだが、今年は天体ショーの当たり年でな。いろいろ調べてるうちに、どうしても撮りたくなって……というわけだ」
親父が屋上の端を指差す。そこには望遠鏡みたいに大きなレンズのついた一眼レフが三脚にセットされていた。
「あれ、どうしたの」
「部屋の奥にしまってあったのを引っ張り出したんだ。メンテナンスを朝から知り合いのカメラ屋に頼んでな。何年も全く触ってなかったから、時間かかってなぁ。でも、楽しくて楽しくて。それにな、」
ニヤリ、と親父が笑った。こんな顔を見るのは初めてだ。
「ひとりっていうのは、大人になるとなかなか価値のあるものなんだよ。お前はまだ、わからなくていいんだけどな」
まるで、友達と話しているようだった。好きなバンドや漫画の話をしてるクラスの奴と、同じような顔だ。
それを見て、俺はなぜだか安心していた。親父が家出したんじゃなかったということに対してもそうなんだけど、俺がイメージしている「大人」とか「親」とか、そういうのとは親父が違うっていうこと、それにすごく安心したのだった。
かっこいいじゃないか。
そう、思ったのだ。
「ところでお前、こんな時間になにしに来たんだ」
「え? あ、いや、えっと、その、ですね……」
ヤバイ。
いくら友達みたいに思えても、親父に「実は煙草吸いに来ましたー、へへっ」なんて言えるわけない。
「まあ、俺も「家出中」の身だし、聞かないでおいてやるよ。あっちに置いてある空き缶のこともな」
ばれてたか。ポケットに入っている煙草とライターの膨らみも、親父は気づいたのかもしれない。
「それより、見てみないか、星。なかなかいいもんだぞ。いや、かなりいいな。うん」
親父は立ち上がると、カメラのほうへと歩いていく。
「いいのかよ、ひとりじゃなくて」
「ひとりもいいが、友達がいるのも悪くないからな」
そう言うと、親父はまたあの笑みを見せたのだった。